四十五十になってもパッとしないようでは、ハイッ!それまあ~で~よ!!。と言うんでしょうね。
『論語』子罕篇に、若い人は無限の可能性を秘めているから、まことに畏敬すべきである、として、
【後生畏るべし】である。と述べられています。
【四十五十にして聞くこと無くんば】は、その反対バージョンで、
【四十五十になっても、鳴かず飛ばずなら】、これはもうそこまでの人物で、期待するのは無理だろう。ということになります。
子曰、後生可畏。
子日く、後生畏るべし。
若い人は無限の可能性を秘めているから、まことに畏敬すべきである。
焉知來者之不如今也。
焉(いずく)んぞ来者(ライシャ)の今に如かざるを知らんや。
どうして後輩達がいつ迄も先輩に及ばないなどということがあろうか。
四十五十而無聞焉、
四十五十にして聞くこと無くんば、
四十五十になっても、鳴かず飛ばずなら、
斯亦不足畏也已。
斯(こ)れ亦(また)畏(おそ)るるに足らざるのみ。
これはもうそこまでの人物で、期待するのは無理だろう。