大きな集団や組織の末端にいるよりは、小さな集団でも構わないから、そこの長になって重んじられる方が良いという意味です。
中国戦国時代の弁論家・蘇秦(ソシン: ?~B.C.317年)が、当時最強国の秦に対抗するため、弱小国は協力し合ってまとまらなければいけないという「合従策」を引っ提げて諸国をめぐり歩いていました。
蘇秦は燕を始めとして趙、韓、魏、齊、楚と「合従策」を説いて廻り、B.C.333年、六国合従が成立し蘇秦は六国の宰相になりました。
3番目に訪れた、韓の国で宣惠(センケイ)王に合従策を説いていた時にこの【鶏口牛後】を持ち出しています。『史記・蘇秦列伝』には臣(シン)聞く、鄙諺(ヒゲン)に曰く、『寧(むし)ろ鶏口(ケイコウ)と為(な)るとも、牛後(ギュウゴ)と為(な)る無(な)かれ』 と。
諺にございますように『寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為る無かれ』とありますが、今、西面し、臂(ひじ)を交(まじ)えて秦に臣事(シンジ)するは、何ぞ牛後に異ならんや。
いま、手を拱いて秦に仕えるのは、まさに牛後となることです。
夫(そ)れ大王の賢(ケン)を以て、彊韓(キョウカン)の兵を挟(さしはさ)みて、而(しか)も牛後の名(な)有るは、臣(シン)窃(ひそ)かに大王の為に之を羞(は)ず、と。
そもそも、大王の賢明さと、強力な軍隊を持ちながら牛後となって、秦に仕えるなどと聞きますと、臣(わたくし)蘇秦は、窃かに大王の為に羞ずる所でございます。
『十八史略』にも蘇秦の「合従策」についての記述があります。こちらは趙の肅公から軍資金を貰って、諸侯に合従のメリットを説いて回るその中で【鶏口牛後】を用いたとありまして、特定の王にのみ語ったのではなく、各国の王に説明したように書かれています。