他からの助けがなく、ただ一人でいることを表す四字熟語です。
【孤立】は、一人ぽっちで助ける者がないという意味です。【孤】を「弧:ゆみ」と書きませんように。
【無援】は、助けの無いことを意味しています。
結局、【孤立】も【無援】も同じことを言ってます。
【孤立無援】は、何かしようとしたとき、誰も助けてくれないということを、同義の熟語を二つ並べて強調した四字熟語です。
後漢の軍人・班超(ハンチョウ:A.D.32年~A.D.102年)は、西域(現在の新疆ウイグル自治区あたり)に匈奴を追って後漢の勢力を広げ、西域都護として長く西域を保持しました。
『後漢書』斑超伝の西暦75年に【孤立無援】で応戦していた斑超の武勇伝が記載されています。
永平18年(75年)、明帝が崩御して章帝が即位しました。
これに乗じて焉耆(エンキ)国は漢に叛(そむ)いて、西域都護の陳睦(チンボク)を殺害し、
亀茲(キジ)国、姑墨(コボク)国は疏勒(ソロク)国を攻撃しました。
疏勒国にいて【孤立無援】の班超は盤橐(バンタク)城を守り、疏勒王の忠とともにこれを防いだが、
不利と見て一旦于窴(ウシン)国に退きました。
ふたたび疏勒国に戻った頃には疏勒城,盤橐城の両城が亀茲国によって陥落しており、
疏勒国は尉頭(イトウ)国に寝返っていました。
班超はすぐに疏勒国の反逆者を斬り、尉頭国を撃破して、疏勒国を取り戻しました。
班超の【孤立無援】を、遡ること約280年。
B.C.206年、秦王嬰(エイ)が項羽に殺され、中国最初の王朝であります秦が15年の短命で終わりました。『史記』秦始皇本紀に、司馬遷ではなく、後漢の班固(前出・班超の兄)が明帝の下問に応えて、秦の過失を述べた文章が挿入されています。その中に秦王嬰についての記述があります。
子嬰は孤立して親(シン)無く、危弱(キジャク)にして輔(たすけ)無し。
子嬰は孤立して親しい者も無く、危うくかよわく、輔佐する者もなかった。
三主惑(まど)ひて、終身悟(さと)らず。
一世、二世、三世の三人の君主は、惑いながら、終身それを悟らなかった。
亡びること亦(また)宜(むべ)ならずや。
亡びるのは、もとより当然のことであった。
ならず者と思われるような、四っの国。今 日本は【四面楚歌】の状態であり【孤立無援】です。