秋の空が澄み渡り、高く晴れて、馬も肥える季節になった、と理解されていますが、元の意味はそんな話ではありません。死活問題だったのです。
紀元前、4世紀末から約500年にわたって蒙古を中心として勢力をふるっていた「匈奴」と呼ばれる遊牧民族がいました。
彼らは、中国北方の草原で放牧と狩猟の生活をしていました。交通機関は馬です。女でも子供でも馬に乗れたそうです。またそれができなければ、用が足せない生活でした。
春から夏にかけ、腹一ぱい草を食べた馬は、秋になると丸々と肥えてきます。
十月に入れば日中でも零度を越すこともあり、もう放牧はできません。
匈奴としても、冬を越すための止むをえぬ手段として、収穫の終わった南方の中国本土に、襲いかかり、穀物を掠(かす)めては、再び風のように去って行くのでした。
毎年の出来事です。ですから、秋になると北方に住む中国人は恐れました。「また、あの匈奴が攻めて来る」 と。
『漢書』の匈奴伝に匈奴秋に至る。馬肥え弓勁(つよ)し。即(すなは)ち塞(さい)に入る。
秋になると馬は肥え、弓を引く力も強くなり、直ちに国境を越えてくる。
また『漢書』趙充国(チョウジュウコク)伝にも秋に到れば馬肥ゆ、変必ず起らん。よろしく使者を遣(つか)わして辺兵を行(めぐ)らしめ、あらかじめ備えを為(な)すべし」
また、匈奴が襲撃してくる季節になったから、辺境の守備にぬかりがないように使者を巡回させるように。という指示が出されていたようです。
ですから、【秋高馬肥】は、泥棒が来るから、気を付けろ! という警告の四字熟語だったようです。
「万里の長城」の作られた一因でもあります。その後匈奴も、分裂やら漢への融合を果たし2世紀中頃にはキルギス地方に移住し、消息を絶ってしまいました。4世紀にヨーロッパを荒したフン族は北匈奴の末裔と言われています。
そんなことで、秋の来襲も無くなり、【秋高馬肥】は文字通り、秋の季節の良さを表現する言葉として使われるようになりました。