【四海(しかい)の内(うち)、皆(みな)兄弟(ケイテイ)なり】と、読まれます。
真心と礼儀を尽くして交われば、世の中の人みんな兄弟のように仲良くなれる、という意味です。
『論語』顏淵篇に、でている故事成語です。
孔子のお弟子さんの司馬牛(シバギュウ)には、主人を殺しまた孔子をも殺害しようとした兄がいました。
司馬牛の嘆きを子夏が励ます場面が記載されています。
司馬牛、憂れえて曰く、人皆兄弟有り、我独(ひと)り亡(な)し、と。
兄の桓魋(カンタイ)が無法者で、皆に迷惑をかけていることから、
司馬牛は落ち込んで言いました。
世の中の人には、みな兄弟がいるのに、私には居ない(も同然)、と。
子夏曰く、商之を聞けり。死生は命有り、富貴は天に在り、と。
子夏がこう慰めました。
私(商は子夏の本名)はこう聞いています。
死ぬも生きるも運命であり、(同じく)財産も地位も天命のままだ、と
君子敬して失うこと無く、人と恭(うやうや)しくして礼有らば、
教養人たる者、自重して失礼がなく、他者に対しては謙遜して礼儀を重んじるならば
四海の内、皆兄弟為り。
世の中の人がみな自分の兄弟のようなものになる。
君子何ぞ兄弟無きを患(うれ)えん、と。
実の兄弟がないからといって、どうして落ち込むのだ。
教養人たらんとする君が、兄弟がどうのこうのと今更どうにもならないことを、
どうしてクヨクヨする必要があるのだ。