【夫子(フウシ)歩(ホ)すれば亦(また)歩し,夫子趨(はし)れば亦趨る】という、『荘子』田子方篇にある文章を四字熟語化したものです。先生が歩けば自分も歩き、先生が走れば自分も走る。弟子(顔回)が先生(孔子)の真似をし、そこから何かを『學ぶ』。という意味かなと思います。
顔淵問於仲尼曰、
顔淵,仲尼に問ひて曰く,
顔淵が仲尼に問いかけて言いました、
夫子歩亦歩、夫子趨亦趨、夫子馳亦馳。
夫子歩すれば亦歩し,夫子趨れば亦趨り,夫子馳すれば亦馳す。
先生が歩かれるときは私も歩き、先生が小走りになられるときは小走りになり、
先生が駆けだされるときは駆け出します。
夫子奔逸絶塵、而回瞠若乎後矣。
夫子,奔逸(ホンイツ)絶塵して,回,後に瞠若(ドウジャク)たり,と。
先生が疾風のように空を切って飛んでいかれるときはとり残されて
私は後方にとり残されて目を見張るだけです
仲尼曰、回、何謂邪。
仲尼曰く,回,何の謂ぞや,と。
孔子が言いました、回よ、どういう意味かね。
曰夫子歩亦歩也。夫子言亦言也。
曰く、夫子歩めば、亦た歩むとは、夫子言えば亦た言うなり。
顏淵は答えました、先生が歩かれるときは私も歩くと申しましたのは、
先生が話をされればわたくしも話をするということです。
夫子趨亦趨也。夫子辯亦辯也。
夫子趨(はし)れば亦趨るとは,夫子辯(ベン)ずれば亦辯ずるなり。
先生が小走りになられるときは小走りになると申しましたのは、
先生が議論をなさると私も議論をするということです。
夫子馳亦馳也。夫子言道、回亦言道也。
夫子馳(は)すれば亦馳するとは,夫子道を言へば,回も亦道を言ふなり。
先生が駆けだされると駆けだしますと申しましたのは、
先生が、道について語られるとわたくしも道について語るということです。
及奔逸絶塵、而回瞠若乎後者、夫子不言而信、
奔逸絶塵するに及びて,回,後に瞠若たりとは,夫子は言はずして信に,
疾風のように空を切って飛んでいかれると私は後方にとり残されて目を見張るだけです、と
申しますのは、先生がものも言わないでいて信頼され、
不比而周、無器而民滔乎前、而不知所以然而已矣。
比せずして周に,器無くして民に蹈みて,然る所以を知らざるのみ,と。
一部の人におもねったりしないでひろく親しみ合い、君主の地位もないのに、
民が慕い集まってくる、しかもなぜそれがそうなのかわからないということです。