心にわだかまりがなく、からりとして、聖なる心理などない。聖人も凡人も平等無差別である。
禪の悟りの境地を言った言葉のようです。
【廓然:カクネン】は、心がからっとして広いさまを言います。【然】をネンと読むのは呉音読みです。
【無聖:ムショウ】は、聖などというものはない、ということで、聖人も凡人もないという意味でもあります。
【聖】をショウと読むのは呉音読みです。
『吾輩は猫である』(五)に【廓然無聖】がみえます。
達磨(だるま)と云う坊さんは足の腐るまで座禅をして澄ましていたと云うが、仮令(たとい)
壁の隙(すき)から蔦(つた)が這い込んで大師の眼口(めくち)を塞(ふさ)ぐまで動かない
にしろ、寝ているんでも死んでいるんでもない。
頭の中は常に活動して、【廓然無聖】などと乙な理窟を考え込んでいる。儒家にも静坐の
工夫と云うのがあるそうだ。これだって一室の中(うち)に閉居して安閑と躄(いざり)の修行を
するのではない。
脳中の活力は人一倍熾(さかん)に燃えている。ただ外見上は至極沈静端粛の態(てい)
であるから、天下の凡眼はこれらの知識巨匠をもって昏睡仮死(コンスイカシ)の
庸人(ヨウジン)と見做(みな)して無用の長物とか穀潰(ごくつぶ)しとか入らざる
誹謗(ヒボウ)の声を立てるのである。