氷と炭という、全く関連性のないものが、その特性を活かしてお互いに助け合うと言うことを表します。
【氷炭相愛】は『淮南子:エナンジ』の説山(セツザン)訓というところに出てきます。この【氷炭相愛】の出ているところには、物事の表面を見るだけでなく、その表面の本質を理解しなければいけない。というようなことを、具体例をあげて示しています。
例えば、聖人は生涯、治政について言うが、用いるのはその言葉ではない。言葉の発せられる真情を用いるのである。
ということを始めとして、いろいろ例をあげて、おしまいの方で、氷と炭を用いて、相反する性質も見方によれば、お互いに助け合い長所を表すと言うようなことを言ってます。
天下に膠漆(コウシツ)よりも相憎(あいにく)むもの莫(な)くして、氷炭(ヒョウタン)よりも相愛するもの莫(な)し。膠漆相賊(あいそこな)ひ、氷炭相息(あいいこ)ふ。
この世の中で膠(にかわ)と漆(うるし)ほど憎みあっているものはなく、
氷と炭ほどに愛し合っているものはない。(なぜかというと)
膠と漆は一度くっついてしまうと合体してしまい、本来のそれぞれの形を失ってしまう。
一方、氷と炭は、一緒になった時、氷は水となり、その水が火を消して炭をもとの形にもどし、
お互いにその本来の姿に落ちつく。
ということなんですが、これが『韓非子』の「顕学篇」になりますと
氷炭は器を同じくして久しからず、寒暑は時を兼ねて至らず。雑反(ザッパン)の学は、両立して治まらず。
氷と炭とは一つの器の中で長くは持たない、寒さと暑さとは一つの時期には訪れない。
それと同じく原理の相反する学説が平和に両立してゆけるはずがない。
今で言うならば、御用学者批難とでも言うところかもしれません。
出来たのは『韓非子』が戦国末期、『淮南子』が前漢です。
同じ氷炭を用いても、その「寓意」は相反しているように思います。