『百尺竿頭、一歩を進む』として知られています。
百尺の竿の先まで到達出来ても、そこに留まって安心しないで、さらにその先に踏み出しなさい。という禪の教えです。
一般的には、充分努力をしたうえで、更に努力をするという意味に使われます。
『無門関』では「竿頭進歩」と題したお話の中で【百尺竿頭】が出てきます。
石霜(セキソウ)和尚が言われた
『百尺の竿頭に在るとき、どのようにしてさらに一歩を進めるのか』
古徳(コトク)が言われた
『百尺竿頭に座り込んでいるような人は、一応そこまでは行けたとしても、まだそれが
真実というわけではない。百尺竿頭からさらに歩を進めて、あらゆる世界において自己の
全体を発露しなくてはならない』。
このあと、『無門曰く』としまして『どのようにして百尺竿頭から歩を進めるのか』という方法、かどうか分かりませんが、『頌(ジュ)に曰く』として
頂門(チョウモン)の眼を失えば、
無用のものに眼がくらむ。
身を投げ命を捨ててこそ、
衆生(シュジョウ)を導く人ならん。
なんか、良く分かりません。
百尺の竿頭に辿(たど)り着くのさえ大変なことだと思います。
到達出来たらそれでいいんじゃないでしょうか、と私なんかは思ってしまいます。
さらに一歩踏み出したら、真っ逆さまに落っこちてしまい、大怪我をしちゃうんじゃないでしょうか。
極めると言うことは、命がけのことなんですね。