一日中いつでも、と言う意味です。
四六時は、四×六=二十四時、と言うことで 24時間。すなわち一日中となります。
『論語』里仁篇に、下記のような話が出ています
子曰、參乎、吾道一以貫之。
曰く、参(シン)や、吾が道は一以て之を貫く。
孔子が言いました、参(シン・曽子の名)よ、吾が人生は一つの使命で貫かれているのだよ、と。
曾子曰、唯。
曽子曰く、唯(イ)。
曽子は、はい、承知しております、と答えました。
子出。
子出(い)ず。
孔子が退出しました。
門人問曰、何謂也。
門人問(と)うて曰く、何(なん)の謂(イ)いぞや。
他の門人が、曽さん、今の話はどういう意味ですか、と問いました。
曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。
曽子曰く、夫子(フウシ)の道は、忠恕(チュウジョ)のみ。
曽子は、先生の人生は、
忠恕、つまり、まごころ(忠)と思いやり(恕)、に尽きるんですよ、と言いました。
これをふまえて、下村湖人の『論語物語』にわかりやすく出ています。
君等はわしに何か秘伝でもあると思っているのか。わしの進む道に秘伝はない。
わしは【四六時中】の生活に道を現わして行きたいと思っている。
君等がわしに学ぼうとするなら、わしの生活を見ればいい。言葉は道ではない。
わしが口で言わないからといって、何も君等に隠してはいないのじゃ。
孔丘という人間は、そんな人間だと思ってくれ。
言葉というものは、それ自身では無力なものだ。受身で学問をしている人に、千万言を
費して教えても、何の役にも立つものではない。
だからわしは、君等が求めに求めて憤りを発するほどに熱して来ない限り、君等の蒙を
啓いてやる気にはなれない。
君等は、自分でわかってもいないくせに、とかく気の利いた言葉だけを求めたがるが、
わしは、君等が一通り道理を会得した上で、それを表現しようとして苦しんでいるのを
見なければ、的確な言葉を与えたくないのじゃ。
無論わしは君等に道理の一隅だけを示してやりたい。君等はその一隅を手がかりに、
他の三隅を自分で発見すべきじゃ。もしそれが出来なければ、わしはもう君等にそれ以上
教えようとは思わない。