ある時、いきなり迷いがなくなり、悟りが開けることを言います。
【一旦】は、ある朝の意味です。
【豁然】は、① からりと開けるさま、 ② うたがい迷っていた心がからりと開けるさま の意味がありまして、
ここでは②の意味になります。
四書五経の『大學』という漢籍に、一旦豁然の状態が述べられています。
原文
是以大学始教、必使学者、既凡天下之物、莫不因其已知之理、而益益窮之、以求至乎其極。
至於用力之久、而【一旦豁然】貫通焉、則衆物之表裏精粗、無不到、而吾心之全体大用、無不明矣。
此謂物格。此謂知之至也。
訓読
是(ここ)をもって大学の始教(しきょう)は、必ず学者をして凡(およ)そ天下の物に即(つ)きて、
その已(すで)に知るの理によって益々これを窮め、もってその極に至るを求めざる莫からしむ。
力を用うるの久しくして、【一旦豁然】として貫通すれば、則ち衆物(シュウブツ)の表裏精粗
(ヒョウリセイソ)到らざるはなく、而(しか)して吾が心の全体大用(タイヨウ)明らかならざるは
なし。
これを物(もの)格(いた)ると謂う。これを知の至りと謂う。
現代文
そういうわけで、『大学』における最初の教育では、学習者に対して必ず、世界中のあらゆる物事に
ついて、既に知っている知識・道理をよりどころにしてより一層その理を窮め、理の極致に達する
ことを追求させるのである。
このようにして久しく努力を重ねるうちに、あるときパッと目の前が開けて貫通するに至れば、
あらゆる物事の表も裏も深遠も卑近もすべてに行き届かないところなく、そして自分の心の完全な
本体と大いなる作用とが明白になるのである。
『言志耋録』にでている【一旦豁然】です。
一旦豁然四字。
一旦(イツタン)豁然(カツゼン)の四字、
一旦豁然の四字は、
(書物を読んで分らなかった事が、苦心に苦心を重ねて、「分かった」と思った時、
これが「一旦豁然」である。)
真是海天出日景象。
真に是れ海天(カイテン)出日(シュツジツ)の景象(ケイショウ)なり。
それは海上に朝日が昇った瞬間の如きである。これは学理上の問題が
分かった時のことで、
勿認做参禅頓悟境。
認めて参禅(サンゼン)頓悟(トンゴ)の境と做(な)すこと勿れ。
参禅をして、はっと悟るというようなものではない。