【赤貧(セキヒン)洗うが如(ごと)し】と訓読みされまして、洗い流されたように何にもない、ひどい貧乏なことを言います。
【赤】は、色の「あか」を意味するほかに、ありのまま、まるはだか、むきおだし、という意味もあります。
江戸中期の儒学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい:1666年3月21日~1728年2月28日)は、13歳の時、館林藩主だった父親が徳川綱吉の怒りにふれ、江戸から放逐されてしまいました。
家族で母親の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移りました。
元禄5年(16歳)、父の赦免で共に江戸に戻り、学問に専念しました。
芝増上寺の近くに塾を開きましたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられた逸話が『先哲叢談:センテツソウダン』巻之六 物茂卿(ブツモケイ:荻生徂徠のこと)篇に出ています。
初め芝街に卜居す、時に赤貧洗ふが如く、舌耕(講釋)〕殆ど衣食に給せず、
(江戸に戻った徂徠は、)芝に居を構えましたが、赤貧洗うが如き状態で
とても塾の講義で生計を立てられるような状態ではありませんでした。
増上寺の前に腐家(フカ:豆腐屋)あり、徂徠が貧にして志あるを憐れみ、
日に腐渣(フサ:おから。きらず)を饋(おく)る、
増上寺前に豆腐屋があり、徂徠が貧乏ではあるが志が高いのを見込んで、
毎日、雪花菜(おから。きらず)をくれました。
後日禄を食(は)むようになってから、徂徠はその時の恩返しに、米三斗を贈ってこれに報いました。