下にいる者の勢力が、強すぎて制御が出来ない状態をいいます。
【尾、大にして掉(ふる)はず】と訓読みされます。
樹木について言うと、枝が大きくて幹が細いと木は必ず折れてしまいます。
動物について言うと、獣の尻尾が体のわりに大きいと、思うように尻尾を振れなくなる。
というような喩(たとえ)で【尾大不掉】が『春秋左氏伝・昭公11年』のところに出ています。
昭公11年と言いますのはB.C.531年、春秋時代の後半で、孔子が20代のころです。
各国でその国のトップよりも二番手、三番手の家来の方が実力をつけて、トップを蔑(ないがし)ろにするような傾向が強くなってきた時代でした。
楚の国の王(霊王:レイオウ)が息子(弃疾:キシツ)を、副都心にあたる町の長に任命しました。参謀の申無宇(シンムウ)に事後相談しました。
「古来より、近親者を都の外に置かず。 よそ者は身近に置かず」の例を出して、申無宇は進言しました。
「今王は、御子息を外に出しました。そうして(他国から来奔(ライホン)してきた)鄭の公子丹が王の身近にいます。どうかご用心下さい」
さらに
「今の世、都以外の町に住む御家来が勢力を持つのは、命取りになりかねません。近くの例では
齊の副都葵丘(キキュウ)が大きくなり過ぎて、都の公子:公孫無知を殺してしまったではありませんか。
また衛の副都蒲(ホ)と戚(セキ)の御家来が、こともあろうに君主の献公(ケンコウ)を追い出してしまいました」
「これらのことを考えますと、副都にすむ御家来が大きくなるのは害があります。
枝が大きすぎると折れるし。尻尾が大きいと動かせなくなること、【尾大不掉】は、王も御存じのはずです。
よくよくお考え下さい」、再三申無宇は王を諫(いさ)めました。
このあと霊王は申無宇の進言を取り入れること無く、BC529年4月、都の外に出した息子達の叛乱に会い、方々逃げまわった挙句、申無宇(この時はすでに亡くなっていましたが)の息子(申亥:シンガイ)の家に匿(かくま)われますが 5月29日、自刎して果てました。
【尾大不掉】は命取りになる。という古代の教えでした。