【此れ左遷なり】と訓読みされまして、普通の四字熟語とはちょっと違うのですが、記載します。
【左遷】は、官位を下げて遠地に転任させることを言います。古代中国では右を尊び、左を卑しまれていたようです。日本では右大臣より左大臣の方が上位でした。
『史記』韓信(カンシン)・盧綰(ロワン)列伝のお話の一部です。
劉邦と項羽の楚漢戦争(B.C.206~B.C.202)のB.C.206年、圧倒的な軍事力を背景に政治上の主導権を握った項羽は、諸侯を対象に大規模な封建を行い18王国体制を築きます
劉邦は、西のはずれの『漢』の王として封建されました。
封建の基準となったものは、項羽との関係が良いか悪いかでしたから、かなり不公平なものとなり、諸侯に大きな不満を抱かせるものとなりました。
沛公立為漢王韓信從入漢中乃說漢王曰
沛公(劉邦)、立ちて漢王と為り、(将軍)韓信は従いて漢中に入り、
漢王(劉邦)に説(と)いて曰く、
劉邦は漢王となり、韓信(股くぐりの韓信とは別人です)は従って漢中に入り
劉邦に言いました。
項王王諸將近地,而王獨遠居此,此左遷也。
項王、諸將を近地に王となし、王、獨(ひと)り此に遠居(エンキョ)す。
項王は諸將を都に近い國の王としましたのに、
わが王だけが遠く離れおられます。
此左遷也。
此れ左遷なり。
これは左遷です。
わが王の御家来は皆(みな)山東の出身者です。
足を爪立てて東の故郷に帰ることを望(のぞ)んでおります。
ですから、その気力の盛んなうちに東へ向かうことになれば、
天下を爭うことができるでしょう。
これが楚漢戦争の実質的な幕開けであります。