【下問を羞じず】と訓読みされまして、後輩や目下の者に教えを乞うことを少しも恥としないことを
言います。
『論語』公冶長篇に出ています。
子貢問曰、
子貢問いて曰く、
子貢が質問して言いました。
孔文子、何以謂之文也。
孔文子(コウブンシ)は何を以て之れを文と謂うや。
衛の大夫:孔文子は、どうして文という諡(おくりな)がつけられたのでしょうか。
子曰、敏而好學、不恥下問、
子曰く、敏にして学を好み、下問を恥じず、
孔子が言いました、
鋭敏でありながら学問を好み、目下の者の意見を聞くことを少しも恥としなかった。
是以謂之文也。
是を以て之れを文と謂うなり。
だから、文という諡がつけられたのだ。
孔文子という人は、生前、とかく問題の多い人だったようです。
同僚をそそのかして無理矢理奥さんと離縁させ、その後釜に自分の娘を嫁がせ、同僚が別の女を
囲っていると知るや、今度は強引に娘を取り返しに行ったりしたとか。
ですから子貢は、そんなおかしなことをする人が、どうして『文』などという立派な諡をもらったのか
疑問に思い、孔子に尋ねたのでしょう。
孔子はかって衞に滞在したとき、ある事件に関して孔文子から意見を求められました。そのとき
孔子は、はっきりと反対意見を述べたところ孔文子は素直に受け入れたことがありました。
問題のあった孔文子ではあるが【不恥下問】という一面もあった、というところだそうです。