曇りのない鏡と静かな水の意味から澄み切った、落ちついた心を表す四字熟語ですが、【明鏡止水】とまとまっては出てきません。
『荘子』の徳充符(トクジュウフ)篇というところに出てきますが、【止水】が先で【明鏡】が後に出てきます。
徳充符篇は『荘子』内編のうちの第五番目です。荘周自身の作によるものかもしれません。
荘周は儒家を諷刺(フウシ)した寓話(グウワ)をいくつか作っています。この徳充符篇は、徳が心のうちに充満すると、その符(しるし)が外面に表れると言うことを、4つの寓話で分かり易く解説しています。1番目のお話の中で【止水】が、2番目のお話の中で【明鏡】がそれぞれ出てきます。
まず【止水】です
仲尼(チュウジ:孔子のこと)曰く、人は流水に鑑(かんが)みること莫(な)くして止水に鑑みる。唯だ止のみ能(よ)く衆止(シュウシ)を止(とど)む。
人は流れる水を鏡とはしないで、静止した水を鑑とするのです。
それは静止した水のみが物のすがたをそのままに映せるからです。
次に【明鏡】です
ある人が子産(鄭:テイの名宰相。孔子と略同時代 )の挙動を咎めて、言いました。
鏡明らかなるは則(すなわ)ち、塵垢(ジンコウ)止(とど)まらざればなり。止まれば則ち明らかならず。
鏡に曇りがないのは、塵がつかないからだし、塵がつくと曇る。
(すなわち、しばらく賢者と一緒にいると、その人に感化されて心に曇りが取れて、
過ちがなくなる。)
『淮南子』の俶眞(シュクシン)訓のところにも【明鏡止水】が出てきます。こちらもやはり【止水】が先で【明鏡】が後になっていますが、一続きの文章の中で出てきます。
人の流沫(リュウマツ)に鑑(かんが)みる莫(な)くして、止水に鑑みるは、其の靜かなるを以てなり。形を生鐵(セイテツ)に窺(うかが)ふ莫くして、明鏡に窺うは、其の易(たいら)かなるを以てなり。
夫(そ)れ唯だ易(たいら)かにして且つ静かなるは、物の性を形(あらわ)すなり。
人が流水を鏡とせず、止水を鏡とするのは、それが静かだからである。粗鉄に姿をうつすこと
なく、明鏡にうつすのは、それが平らだからである。
すなわち、ひたすら平らで且つ静かであるものは、万物の本性をそのまま表すのである。
水にしろ、鏡にしろ、本来は綺麗なんです。流れで掻き回されたり、塵で曇ったりして、鏡のように映し出せなくなるなるのです。
人の心も、本来綺麗なんだと思います。周囲の外乱に惑わされ、自分の変な拘りで物を見るために、本来綺麗な心が汚れ、本物と言うか、真実と言うか、が見えなくなってしまうんじゃないでしょうか。
【明鏡止水】をこんなふうに解釈してみました。あくまでも私の勝手な解釈です。