【管中(カンチュウ)より天を窺(うかが)う】、と訓読みされまして、見識や視野の極めて狭いことの例えを言います。
『史記』扁鵲(ヘンジャク)倉公列伝第四十五で、名医扁鵲のエピソードとして【管中窺天】が出てきます。
扁鵲が虢(カク)の国へ行った時、その国の大子の病死の噂を耳にしたので、宮廷の医師を
訪れて、その病状を聞きました。
死んだという時刻からあまり時間が経ってないことが分かったので、扁鵲は言いました
「私が生き返らせてあげよう」と。
宮廷の医師と扁鵲との間で討論となりました。その内に扁鵲は天を仰いで嘆息して言いました。
若以管窺天.以郄視文.
管を以て天を窺(うかが)い、郄(ゲキ)を以て文(ブン)視るが若し。
管を通して広い天を窺い、隙間から複雑な模様を見るようなもの
(とても全般を見通すことはできませんぞ)。
もしわたしの言うことを信用しないのなら、もう一度太子を診てごらんなさい。
その耳が鳴り、鼻がふくらむ音が聞こえるはずです、両股をなでて陰部に触れれば
まだ暖かいはずです。
果たして、宮廷医師が再び検診したところ、扁鵲の余りの的確な診断に驚き、
直ちに君侯に報告しました。
その後 扁鵲は、死人を生き返らす名医としての評判が経ちました。でも扁鵲は、
「死んでいない人を治したまでだ」と言って、その国を後にしました。
【管中窺天】から派生した成語が『管見:カンケン』です。
自分の見識を謙遜して言う場合に使われる言葉です。