360年前の明暦3年1月18日(1657年3月2日)から、1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失し、振袖火事・丸山火事とも呼ばれる『明暦の大火』がありました。
この『明暦の大火』は、
明和の大火、明和9年2月29日(1772年4月1日)
文化の大火、文化3年3月4日(1806年4月22日)
とともに江戸三大大火の一つといわれています。
その中でも『明暦の大火』は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火災の筆頭に挙げられています。
『明暦の大火』は火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したものだそうです。
【振袖火事】とも呼ばれているのは、本郷の本妙寺を火元とするものでした。
でもこれは後世の作り話なんだそうです。
麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(16)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、
上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。
梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。
案じる両親に、彼が着ていたのと同じ振袖を作ってもらい、日夜その振袖をかき抱きます。
病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らすのでした。
両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやりました。
この振袖は、本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16)のものとなりました。
ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、
奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、
振袖は別の町娘・いく(16)の手に渡りました。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、
振袖はまたも棺に掛けられ、本妙寺に運び込まれてきた。
住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにしました。住職が読経しながら護摩の火の中に
振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が
立ちあがったような姿で空に舞い上がり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となりました。
これが作り話でした。
この『明暦の大火』の26年後、「八百屋お七」にまつわる、火災が発生しました。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまりましたが、お七は放火の罪で捕らえられて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされました。
こちらは事実のようです。