【夢中(ムチュウ)に夢を説く】と訓読みされまして、すべての現象は実体がなく、はかなく虚しいものであるということです。
『荘子』斉物論で、夢の中で人に夢を説く話からできた四字熟語です。
夢に酒を飲む者は、旦(あした)にして哭泣(コッキュウ)し、
夢の中で酒を飲んで楽しんでいた者が、朝になると、悲しい現実に声をあげて泣き、
夢に哭泣(コッキュウ)する者は、旦(あした)にして田猟(デ ンリョウ)す。
逆にまた夢のなかで泣き悲しんでいた者が、朝になればけろ りとして楽しい狩猟に
でかけるということもある。
其の夢みるに方(あた)りては、其の夢なるを知らざるなり。
夢をみているときには、それが夢であることは分からず、
夢の中に又(ま)た其の夢を占い、覚(めざ)めて後に其の夢なるを知る。
夢の中でまた夢占いをしたりして、目がさめてから始めてそれが夢であったことが
分るのである。
且 (か)つ大覺(ダイカク)有りて、而(しか)る後に、此れ其の大夢(タイム)なるを知るなり。
(人生も同じことだ)本当の目覚めがあってこそ、人生が大きな夢であることが分かるのだ。
而(しか)るに愚者は自ずから以て覚(めざ)めたりと為し、
それなのに、愚か者は自分が、人生を悟ったかのようにうぬぼれ
竊竊然(セツセツゼン)として之を知れりとし、君(きみ)とし、牧(ボク)とす。
あれこれと穿鑿してはもの知り顔をして、君子には媚び、牧人を賤しんで差別をする。
固(かたくな)なるかな。丘と女(なんじ)と皆夢なり。
かたくななことである。孔子もお前もみな夢を見ているのだ。
予(わ)れの女(なんじ)を夢と謂うも亦夢なり。
私がお前に夢の話をしているのも、また夢だ。
是(こ)れ其の言や、其の名を弔詭(チョウキ)と為す。
こうした話こそ、名付けて弔詭(とても変わった話)という。
初夢は、諸説あるようですが、2日の夜に見る夢とされることが多いようです。