錐(きり)の先を立てるほどの非常に狭い土地。人々が密集していることの形容に使われます。
実際には、【立錐の地もない】とか【立錐の余地もない】という使われ方が多いです。
【立錐之地】、これは『史記・留侯(リュウコウ)世家』、『史記・滑稽(コッケイ)列伝』にでています。
留侯は張良(チョウリョウ)のことです。
『史記・留侯世家』に出ているところを、書き出してみます。
武王、紂(チュウ)を伐(う)ち、其の後(=子孫のこと)を宋(ソウ)に封(ホウ)ぜり。今、秦、徳を失い義を弃(す)て、諸侯の社稷(シャショク)を侵伐(シンバツ)し、六国(リッコク)の後を滅ぼし、立錐の地無からしむ。
武王は紂王を伐って、その子孫を宋に封じました。 今、秦は徳をうしない義をすてさり、
諸侯の社稷を侵伐し、六国の子孫を滅ぼして、彼らが錐を立てるだけの微小な土地さえ
保有できないようにしました。
これは項羽が劉邦を滎陽(ケイヨウ)に包囲した時、困った劉邦が酈食其(レキイキ)と言う人に相談しました。その時の酈食其の進言の中に出てくる文章の一部です。
『史記・滑稽列伝』では、次のようなエピソードで【立錐之地】が使われています。
楚の荘王(B.C.613~B.C.591)の時代、清廉潔白な宰相「孫叔敖:ソンシュクゴウ」が亡くなり、その子は貧乏に陥り薪(まき)を背負って商いをし、やっとどうにか糊口(ココウ)を凌(しの)いでいる状態でした。
優孟(孟という名の俳優)という人が、ひと工夫して荘王に面謁し孫叔敖の息子のために進言しました。
史記の滑稽列伝は命がけのユーモアを演じた人達のお話が綴られていまして、この優孟の話は出色(シュッショク)であります。
荘王に会うためのひと工夫とは、亡くなった孫叔敖に変装したことでした。それも声から立ち居振る舞いまで一年がかりのものでした。そのため荘王は孫叔敖が生き返ったものと思い、早速宰相に任命しようと言いました。
優孟は「かみさんと相談したいので三日間の猶予を頂きたい」と答え、三日後の返事に【立錐之地】を交えて孫叔敖の息子のために直訴(ジキソ)しました。
結果、その息子は領地を与えられ、四百戸に封じられました。亡父の祭祀も行えるようになり、その子孫は十世の後まで絶えることはなかったそうです。
世界ツアー中のレディー・ガガさんが来日。
「さいたまスーパーアリーナ」はファンの人達でおそらく【立錐の余地もない】ことだったのでしょう。