【百邪、辟易す】と訓読みされまして、いろいろな魔物がすべてしり込みをして近づいてこない、と言う意味です。
確りとした志を持っている人には、それを阻害するものは近づいてこない、と佐藤一斎先生は
『言志録』第33条で説いています。
【辟】は避けるの意味、【易】は変えるの意を表します。
【辟易】は、「道を避けて場所をかえる」が本来の意味です。転じて、「相手を恐れ逃げる」の意になります。
『史記』項羽本紀に本来の意味で【辟易】が使われています。
項王、目を瞋(いか)らして之(これ)を叱(しっ)す。
赤泉(セキセン)侯、人馬俱(とも)に驚き、
【辟易】すること数里。
『太平記』巻第十四 矢矧、鷺坂、手超河原闘事では、足利軍が新田義貞の「勢いに気おされて引き退く」という意味で使われます。
総大将義貞・副将軍義助 七千余騎にて、香象(かうざう)の浪を蹈で大海を渡らん勢ひの如く、
閑(しづか)に馬を歩ませ、鋒(きつさき)を双(ならべ)て進みける間、敵一万余騎、其の勢ひに
【辟易】して河より向へ引退(ひきしりぞ)き、其の勢(せい)若干(そくばく)被討にけり。
日本では、相手に対して逃げるばかりで何もできないことから、「閉口する」、「うんざりする」の意味に変化していきました。日本独自の意味だそうです。
夏目漱石が【辟易】を「うんざりする」の意味で多用しています。
『言志録』の【辟易】は「しり込みする」の意味です。
有志之士如利刃、
志有るの士は利刃(リジン)の如し、
志のある人は、鋭利な刃のようなもので、
百邪辟易。
百邪、辟易す。
いろいろの魔物がすべてしり込みして近づけない。
無志之人、
志無きの人は、
なにもしようとする意志のない人は、
如鈍刀。
鈍刀(ドントウ)の如し。
なまくら刀のようなもので、
童蒙侮翫。
童蒙(ドウモウ)も侮翫(ブカン)す。
子供までがバカにする。