【政(セイ)を為(な)すは人に在(あ)り】と訓読みされます。
政治を行うには立派な人物が必要です。と言うことを表している四字熟語です。
儒学の経典の一つ『中庸:チュウヨウ』に出ている言葉です。
『中庸』という書物は、諸説あるようですが、孔子のお孫さんの子思(シシ)によるもので、古くから有名な作品として人々に読まれてきたようです。『大学』が四書の入門であるのに対し、『中庸』は四書の中で最後に読むべきものと言われています。
その『中庸』の中で
春秋末期、魯の君主・哀公(アイコウ:B.C.494~B.C.467)が政治について孔子に尋ねた話が載っています、その時の孔子の答が次のような内容でした。
周の文王・武王の立派な政治は文献として残されていますが、(それを読めばいいというものではありません)それを活用できる人物がいてこそ、立派な政治が行われます。然(しか)るべき人物がいないと、政治も廃(すた)れてしまいます。
然るべき人物が、善い政治を行うのは、大地が草木の生育に努めるのと同じであります。
そもそも政治というものは、土蜂(じがばち)のようなもの(で、他人の子供を我が子のように育てるもの)なのです。ですから、政治を行うには立派な人物が必要です。
そして、立派な人物を得るためには、まず君主が立派でなければいけません。君主が立派であるには、仁の徳にしたがうことです。
と孔子は言いました。
また、「中庸」という言葉は、人の処世において、極端に走らないで、ほどよい中(なか)ほどをとっていくのがよいと言う意味で理解されています。
『論語・雍也(ヨウヤ)篇』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」
やり過ぎることもなく、足りないこともなく、常に丁度良いということが、徳として最上のものである。
と孔子が「中庸」を賛嘆しています。