見識が狭く世間知らずな人のたとえを言います。
【甕裏:オウリ】は、酒や酢を入れた甕(かめ)の内側と言う意味です。
【醯鷄:ケイケイ】は、すざけ(かゆに酒を混ぜて醱酵させたもの)の中にわく小さな虫。
『かつおむし』をいいます。
『荘子』田子方(デンシホウ)にみえる四字熟語です。全文を記載しないと分かりずらいと思いまして、長文ですが掲示しました。
孔子曰、夫子德配天地。
孔子曰く、夫子は德、天地に配す。
孔子が言いました。先生は天地にもならぶような徳をお持ちです。
而猶假至言以修心。
而(しか)も猶お至言を假りて以て心を修む。
それでもやはり、(無為自然の天地とは違って)すぐれた言葉を利用して、
心を修めておられます。
古之君子、孰能脫焉。
古えの君子、孰(たれ)か能く焉(こ)れお脫(まぬが)れんと。
昔の君子も、言葉を利用することをやめることは、誰にもできなかったでしょう
老聃曰、不然。
老聃(ロウタン)曰く、然らず。
老聃は言いました。そうではない。
夫水之於汋也、无為而才自然矣。
夫れ水の汋(しゃく)に於けるや、无為(ムイ)にして才の自ら然るなり。
水があふれて流れるのは、特別のことではなく水の自然な性質なのだ。
至人之於德也、不修而物不能離焉。
至人の德に於けるや、修めずして物離るる能わず。
すぐれた人が徳にあふれているのは、『知識』がその人から離れないからだ。
若天之自高、地之自厚、日月之自明、夫何脩焉。
天の自ら高く、地の自ら厚く、日月の自ら明らかなるが若し。夫れ何をか脩めんと。
それは、大空が自ずから高く、大地が自ずからに厚く、
日月が自ずからに輝いているようなものだ。いったい何を修めることがあろう。
孔子出、以告顏回曰、丘之於道也、其猶醯雞與。
孔子出でて以て顏回に告げて曰く、丘の道に於けるや、其れ猶お醯雞(ケイケイ)のごときか。
孔子は退出すると、顔回に告げて言いました。
私の存在を道に比べれば、甕の中にわいた虫けらのようなものだ。
微夫子之發吾覆也、吾不知天地之大全也。
夫子の吾が覆を發くこと微ありせば、、吾れ天地の大全を知らざりしならんと。
あの先生が蓋をあけてくれなかったら、私は天地の大きさを知らないままであったろう。