枯れた木と冷たい岩の意味から、世俗を超越した悟りの境地のたとえです。
また、「枯木」「寒巖」と言うことから、冷たく、とっつきづらい態度、性質の喩えに用いられることもあります。
『吾輩は猫である』に、冷たく、とっつきづらい態度、表情の喩えで使われています。
明治38年の出版当初のスタイルで再現記載しました。
基本は正字體、舊假名遣い、總ルビです。
この總ルビのおかげで明治の人たちの識字率は高かったのです。本稿では、ルビをふれませんので、括弧書きにしましたので読みずらいと思います。申し訳ありません。
元來(ぐわんらい)主人(しゅじん)は平常(へいじゃう)枯木寒巌(こぼくかんがん)の
樣(やう)な顏附(かほつき)はして居(ゐ)るものの、
實(じつ)の所(ところ)は決(けつ)して婦人(ふじん)に冷淡(れいたん)な方(はう)
ではない。
嘗(かっ)て西洋(せいやう)の或小説(あるせうせつ)を讀(よ)んだら、其中(そのなか)
にある一人物(じんぶつ)が出(で)て來(き)て、其(それ)が大抵(たいてい)の
婦人(ふじん)には必(かなら)ずちょっと惚(ほ)れる。
勘定(かんぢゃう)をして見(み)ると往來(わうらい)を通(とほ)る婦人(ふじん)の
七割弱(ななわりぢゃく)には戀着(れんちゃく)するといふ事(こと)が諷刺的(ふうし
てき)に書(か)いてあったのを見(み)て、
これは眞理(しんり)だと感心(かんしん)した位(くらゐ)な男(をとこ)である。
そんな浮氣(うはき)な男(をとこ)が何故(なぜ)牡蠣的(かきてき)生涯(しゃうがい)
を送(おく)って居(ゐ)るかと云(い)ふのは吾輩(わがはい)猫(ねこ)抔(など)には到底
(たうてい)分(わか)らない。