一を挙げれば直ちに三を理解するという意味です。一を聞いて十を知るというのと同じことです。
『碧巌録:ヘキガンロク』という、宋代の禪の教科書の一番最初のところにでています。
『碧巌録』は、雪竇重顕(セッチョウジュウケン)が作った「雪竇(セッチョウ)頌古(ショウコ)百則」に圜悟克勤(エンゴコクゴン)が、垂示(序文)、著語(寸評)、評唱(批評)を付けて完成させたものです。
【挙一明三】は、第一則の垂示にでています。訓読文と口語訳を示しました。
垂示に云く、山を隔てて煙を見て、早(つと)にこれ火なることを知り、
山を隔てて煙が立つのを見て、素早く火事であることを知り、
牆を隔てて角を見て、便(すなわ)ちこれ牛なることを知る。
垣根を隔てて角を見て、牛であることを知る。
挙一明三(コイチミョウサン)、目機銖両(モッキシュリョウ)は、これ衲僧家(ノウソウケ)の
尋常茶飯(ジンジョウサハン)。
一を挙げて三を知り、「銖」、「両」のような僅かの重さもすぐ分かるのは
禅僧にとっては日常茶飯事である。
衆流(シュリュウ)を截断(セツダン)するに至っては、東湧西没(トウユサイモツ)、
逆順縦横(ギャクジュンジュウオウ)、与奪自在(ヨダツジザイ)なり。
俗世間の雑念妄想を断ち切ることによって、
東湧西没、逆順縦横、与奪自在の働きをする。
正当(ショウトウ)恁麼(インモ)の時、しばらく道(い)え、これ什麼人(いかなるひと)の
行履(アンリ)の処ぞ。
そのような自由な働きをする人とはどのような人だろうか。
雪竇(セッチョウ)の葛藤(カットウ)を看取(み)よ。
ここに雪竇が提出する問題をよく見よ。