【殷鑒遠からず】と訓読みされます。
【殷】は中国古代王朝の名前です。【殷】は最初【商:ショウ】と言ってましたので、【商鑒遠からず】ともいいます。
【鑒】は鑑の異体字で、この四字熟語の中では、「手本」の意味です。【鑒】にはその他にも「かがみ」、「かんが・みる」、「みわける」、「見識・判断」などの意味があります。
殷がお手本とすべき良い見本は遠くに求めなくとも、すぐ前の夏(カ)王朝の滅亡があると言う意味です。 歴史は繰りかえすと言う意味でもあります。
出典は『詩経(シキョウ)・大雅(タイガ)』です。
『詩経』はB.C.9世紀~B.C.8世紀の中国古代歌謡を集大成したものです。
その中で、【殷鑒不遠】は夏・殷・周と三代続いた古代王朝の、周の10代目厲(レイ)王が暴虐で、周王室が衰退してきたのを嘆いて作られた『詩経・大雅』の蕩(トウ)という詩の中に出てきます。
周の文王曰く 『ああ、なんじ、殷商(インショウ)の君よ、世の人の言葉に、大木が倒れて枯れる時は、枝葉はまだ枯れないのに、その根本が先ず傷んでしまうと言われている。 よく聞くがいい』
殷の戒めとなる手本は遠くにあるわけではない、すぐ前の夏の桀(ケツ)王の時代にある。
夏王朝(B.C.2000~B.C.1600)は 禹(ウ)王からおよそ400年17代目桀王で亡びます。
桀王は稀代の艶女であった妹喜(バッキ)に夢中になり、国政を疎(おろそ)かにしたため、
殷(商)の湯王に滅ぼされました。
殷王朝(B.C.1600~B.C.1100)は 湯(トウ)王からおよそ500年30代目紂(チュウ)王で亡びます。
紂王は稀代の毒婦であった妲己(ダッキ)の歓心を買うため、国政を疎かにし、
周の文王・武王に滅ぼされました。
夏、殷 同じような滅亡形態です。これに鑑みて周もそうならないようにと、暴虐のきざしが見えた10代目の厲王を側近の人々が諫(いさ)めました。
先にあげた文王のことばというのも、正確に言えば、このとき側近の人々が、御先祖の文王のことばとして引き合いに出し、暗に厲王を諫めた歌の文句です。
【印鑑遠からず】はいまから2800年ほど前の言葉です。この言葉がまだ残っていると言うことは、
歴史に学ぶことが未だに少ないからではないでしょうか。
常に過去に学んで、現在があるのであれば、【殷鑒不遠】の四字熟語は無くなるはずです。