傍(かたわら)に人無きが若(ごと)しと訓読みされます。傍は旁とも書きます。
側に人がいないかのように、自分勝手に振る舞うことを表す四字熟語です。
【傍若無人】は『史記・刺客列伝』に出ています。刺客列伝は五人の義侠の士について書かれています。その一人に荊軻(ケイカ)がいます。
荊軻は酒が好きで、酒飲みたちと交際はしていましたが、その人柄は思慮深く読書家でもありました。彼が旅した諸国では賢人、豪傑や有徳者と交際して、お互いに誼(よしみ)を結びました。
荊軻が燕に行った時のことです、犬の屠殺(トサツ)を行う人や、善く筑(チク:琴に似た楽器)を弾く高漸離(コウゼンリ)などと気が合い、飲み仲間になりました。荊軻は、日々高漸離と燕の市で酒を飲み、酒の酔いが進むと、高漸離が筑を弾き、荊軻が筑に歌を合わせ市中を歌い歩き、お互いに楽しみました。そのうちに泣きだし、傍(かたわら)に人がいないかのような振る舞いでした。
ここで【傍若無人】が出てきます。荊軻の物語りはここから始まります。
燕の太子丹(タン)の秦王政(セイ:後の始皇帝)に対する私怨で、極秘裏に荊軻が刺客に立てられます。太子丹の懇願に負け荊軻は秦王政の暗殺を引き受けます。
秦王政の怒りを買い、燕に亡命していた樊於期(ハンオキ)将軍が太子丹のため、また自分の怨みも晴らしてもらうため、自らの首を荊軻に差し出します。
時期至り、樊於期将軍の首をもって、荊軻が秦に向かうとき、太子丹を始め事情を知る者たちが、白い喪服で県境の易水(エキスイ)で荊軻を見送ります。高漸離も来ました。
荊軻が歌います。高漸離が筑を弾きます。
風䔥䔥(ショウショウ)として易水寒し 壮子(ソウシ)ひとたび去ってまた還(かえ)らず
荊軻の秦王政暗殺は結局失敗に終わります。
数年後、高漸離による荊軻の仇討の悲しい後日談があります。
史記刺客列伝はどれもドラマチックなできごとです。