【民生は勤(つと)むるにあり】と訓読みされまして、民の生活の安定には、一所懸命働くことが大事である、と言う意味です。
古代中国、春秋時代(B.C.770~B.C.403)に四大会戦と呼ばれる戦いがありました。
B.C.632 城濮(ジョウボク)の戦い。 B.C.597 邲(ヒツ)の戦い。
B.C.589 鞍(アン)の戦い。 B.C.575 鄢陵(エンリョウ)の戦い
全ての戦いで晉の國が絡んでます。『邲の戦い』は、晉と楚の戦いです。四大会戦中唯一晉が敗北を喫した戦いです。
【民生在勤】は、勝者の楚の荘王が国民を戒めていた言葉です。
【勤むれば則ち匱(とぼ)しからず】、一所懸命働けば貧しくなることはない、と続きます。
『邲の戦い』以降、楚の荘王は覇者となります。
『春秋左氏傳』宣公十二年のところに、【民生在勤】がでています。
欒武子(ランブシ)曰く、楚庸に克ちしより以來、
欒武子が言いました。楚は庸に勝ってから、
楚の君、日として國人を討(おさ)めて之を訓えざること無し。
楚の君主は、日々國人に対して次のように言って戒めていました。
于(いわ)く、民の生は易からず。禍の至るは日無し。戒懼して以て怠る可からず、
民の生活安定は容易ではないぞ。禍はいつやって来るかわからぬぞ。
よくよく用心して気を許してはならぬぞ。
軍に在るときは、日として軍實を討めて之を申儆せざること無し。
出陣に際しては、日々武器を整備しておくことを儆(いまし)めていました。
于く、勝ちは保(たの)む可からず。紂は百たび克ちて、卒に後無かりき、と。
いつも勝てるとは限らぬぞ、紂は百度勝っても最後は滅びてしまったではないか。
之に訓うるに若敖(ジャクゴウ)・蚡冒(フンボウ)が篳路(ヒツロ)藍縷(ランル)にして、
以て山林を啓きしを以てして、
若敖や蚡冒が竹で編んだ車にボロを着て、山林を切り拓いた話をして、
之を箴(いまし)めて曰く、民生は勤に在り。勤むれば則ち匱(とぼ)しからず、と。
箴めて言いました、民の生活の安定には、一所懸命働くことが大事であるぞ、
一所懸命働けば貧しくなることはない。