多くのことを聞いたり見たりすることです。
佐藤一齋著『言志録』第14章にでているのですが、【多見】は、読書のことを言ってます。
吾(われ)既(すで)に善を資(と)るの心有れば、
自分に、他人の善言善行をもとにして、自分の糧にしようとする心が有れば
父兄(フケイ)師友(シユウ)の言、唯だ聞くことの多からざるを恐る。
出来るだけ多く、父兄や師友の言うことを聞こうとするものだ。
読書に至っても亦(また)多からざるを得んや。
読書についても、出来るだけ多く書を読もうとしないわけにはいかない。
聖賢(セイケン)云う所の多聞多見(タモンタケン)とは、意(イ)正(まさ)に此くの如し。
聖人、賢人が言う【多聞多見】の真の意味はこのようなものであろう。
『論語』為政篇にも、【多聞】、【多見】がでています。
こちらは、弟子の子張(シチョウ)さんが、今でいう就活(シュウカツ)について孔子に教えを請う場面です。
子張、禄(ロク)を干(もと)めんことを学ぶ。子曰わく、
弟子の子張が仕官(就職)して俸禄(給料)を得るにはどうしたら良いかを質問した。孔子は、
多くを聞きて疑わしきを闕(か)き、慎しみて其の餘りを言えば、則ち尤(とが)寡(すく)なし。
多くのことを聞いた上で、慎重に云えば、人から非難されることが少ないだろう
多くを見て殆(あや)うきを闕(か)き、慎みて其の餘りを行なえば、則ち悔(く)い寡なし。
多くのことを見た上で、慎重に行なえば、後悔することが少ないだろう。
言に尤寡なく、行ないに悔い寡なければ、禄は其の中に在り。
発言に過ちが少なく、行動に過ちが少なければ、就職は自然と定まる。