その時の利害に従って、くっついたり離れたりすること。
現代では、政党が政権獲得のために、充分な政策のすり合わせもせず、党利党略だけで連携や分裂をくりかえすことを表す四字熟語として使われています。
中国は戦国時代(B.C.403~B.C.221)、周王朝はすでに名目だけとなり、秦を始めとして斉・楚・燕・韓・魏・趙の七国が覇を争う時代でした。
七国の中で、秦が最強でした。公孫鞅(コウソンオウ)の変法、将軍白起(ハッキ)の残虐なまでの軍事力によって、他の六国を凌(しの)いでいました。
六国が連盟を組み、共同で秦を押さえ込もう、というのが合従説です。
縦横家(ショウオウカ)の蘇秦(ソシン)によるもので、『史記』によると蘇秦は鬼谷(キコク)先生に師事した後に母国に帰ったとき一銭もない状態でしたので、兄嫁や妻から馬鹿にされました。一念発起して合従策に取り組みました。彼はまず燕の文候に各国をとりまとめて秦に対することを説き、承諾を得ると趙、韓、魏、斉、楚と各国を言葉巧みに説き伏せ、六国の合従を成立させ、蘇秦は同盟の宰相となり、六国の宰相をも兼ねました。
秦と個別に結んで隣国を攻めるのが有利と説くのが連衡説です。
秦に対抗して合従する国々に対し、秦と手を組むことの利を説いて合従から離脱させるのが目的でした。連衡の論者は秦の息のかかった者であり、その代表的な論客は張儀(チョウギ)でした。
くっついたり離れたり、攻めたり攻められたり、まさに戦国時代の約180年間、最後の勝利者は秦でした。
B.C.230年に韓が秦に滅ぼされたのを皮切りに、略(ほぼ)10年の間に趙→魏→楚→燕→斉と順次秦の軍門に下り、B.C.221年始皇帝による中国統一となりました。
2012・3・25 記