生み育ててくれた父母の恩に報いることが出来なかったことを歎いている言葉です。
その父母もいまはもう、いない。
『詩経』小雅あ(ショウガ)/蓼莪(リクガ)にでている四字熟語です。
6章32句よりなる詩です。【哀哀父母】が出ていますのは、最初の8句です。
蓼蓼者莪、
蓼蓼(リクリク)たる者は莪(ガ)、
大きくなりすぎた莪(よもぎ、若菜)は
匪莪伊蒿。
莪に匪(あら)ず伊(こ)れ蒿(かう)
莪とはいわない、これは蒿(コウ:きつねあざみ)
哀哀父母、
哀哀たる父母
ああ、お父さん、お母さん
生我劬勞。
我を生みて劬勞(クロウ)す。
私を生み育ててくれてありがとうございます。
蓼蓼者莪、
蓼蓼(リクリク)たる者は莪(ガ)、
大きくなりすぎた莪は
匪莪伊蔚。
莪に匪(あら)ず伊(こ)れ蔚(い)
莪とはいわない、これは蔚(イ:おとこよもぎ)
哀哀父母、
哀哀たる父母
ああ、お父さん、お母さん
生我勞瘁。
我を生んで勞瘁す。
私を生み育ててくれてありがとうございます。
自分を生み育ててくれた父母は、今はもういない。
父母の期待にそむき、親の恩に報いることが出来なかったことに対する
自責の念を述べた詩です。
結局この詩は、親の生前に孝養を尽し得なかった悲しみをうたったものです。