同じ木陰に雨宿りをするのも、偶然ではなく前世からのつながりによるものである、ということを表わした言葉です。平家物語、謡曲 によくでてきます。
『平家物語』卷第一/祇王(ギオウ)
祇王もとより思ひ設けたる道なれども、さすがに昨日今日とは思よらず。
祇王は日頃からこんな日が来るのを覚悟はしていたが、まさか今日とは思わなかった
一樹の陰に宿り合ひ、同じ流れをむすぶだに、別れは悲しき習ひぞかし。
一本の樹の陰に宿り合い、同じ流れをすくった仲でさえ別れは悲しいものである
ましてこの三年が間、住みなれし所なれば、名残も惜しう悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。
ましてや三年もの間住み馴れたところなので名残も惜しく悲しくて、涙がこぼれた。
『平家物語』卷第七/福原落(ふくはらおち)
積善の余慶家に尽き積悪の余殃身に及ぶ故に、神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ参らせて、
積善の余慶すでに家に尽き、今や積悪の余殃が身におよんだがために、神にも見放され、
法皇にも捨てられて、
帝都を出で、旅泊に漂ふ上は、何の頼みかあるべきなれども、
こうして帝都を出て漂泊の旅に出た以上、なんの頼みとてもあろうはずもなかろうが、
一樹の陰に宿るも前世の契り浅からず同じ流れを掬ぶも他生の縁なほ深し
一樹の陰に宿るのも浅からぬ前世の契りによるもの、同じ流れをむすび飲むも、
前世の縁が深かったからだ。
平家物語卷第十/千手前(センジュのまえ)
あら思はずや、吾妻にもこれ優なる人のありけるよ。何事にても今一声。
ああ、これは意外だ、東国にもこのように優雅な人がいたなんて、
さあ、なんでもよいからもう一曲
と宣ひければ、千手前、また
と言われると、千手の前はまた
一樹の陰に宿り逢ひ、同じ流れをむすぶも、皆これ先世の契り、
一樹の陰に雨宿りし、同じ流れの水をすくうのも、みなこれ前世の契り
夏目漱石『我輩は猫である』にも【一樹の陰】が使われています。
縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死した
かも知れんのである。一樹の蔭とはよく云ったものだ。この垣根の穴は今日に至るまで吾輩が
隣家の三毛を訪問する時の通路になっている。