莫大な富のことをいいます。【陶朱:トウシュ】、【猗頓:イトン】いずれも人の名前です。
【陶朱】は売買によって、【猗頓】は牧畜によって、巨万の富を手にしました。
『史記』貨殖列伝にでています。
B.C.497 越王勾践は、范蠡(ハンレイ)の諫止をきかず呉王夫差と夫椒山(フショウザン)に
戦って大敗し、会稽山(カイケイザン)に逃れたが、呉軍に包囲されてしまった。
范蠡の助言により呉に降伏した。世に『会計の恥』です。
句節二十年、ついに呉をほろぼして、B.C.473越をして天下に覇をとなえしめた。
范蠡は、「大名のもとには久しく居りがたい」と思い、勾践のひととなりが「ともに患難を
同じくすべきも、ともに安きに居りがたい」ことを思って、その一族とともに越を去って
斉に移った。
斉で范蠡は姓名を変え、鴟夷子皮(シイシヒ)と号し、売買に従事し、高いときには売り、
安いときには買い入れ、たちまちのうちに数千万の富をきずきました。
その財をもことごとく人々に分けあたえて、陶(山東省定陶)へ去った。
陶では名を朱と変え、よく取引の相手をえらんで時機を見て物資を流通し、たちまちの
うちに数千万の富をきずいて、陶朱公と呼ばれました。
猗頓は春秋の魯の人。塩と牧畜によって富をきずき、猗(イ)地方の頓(トン)さんと言う
ことで猗頓と呼ばれ、王公をしのぐ生活をした。
天下の人は金持ちと言えば、陶朱公を引きあいに出し、猗頓の名を出すようになりました。
明治2年 (1869年)に明治政府が貨幣を円形として金銀銅の貨幣を鋳造する制度を定めたことから
『圓(円)の日』だそうです。