【天を仰(あお)ぎて長嘆(チョウタン)す】と訓読みされまして、天を仰ぎみて長くため息をつことを言います。
『荘子』齊物論にでています。岩波文庫『荘子』金谷治訳注・第一冊から転記しました。
南郭子綦(ナンカクシキ)、几(キ)に隠(よ)りて坐(ザ)し、天を仰いで嘘(いき)す。
南郭子綦が肘掛(ひじか)けにもたれて坐り、大空を仰いで太い息をはいた。
荅焉(トウエン)として其の耦(からだ)を喪(わす)るるに似たり。
茫然(ぼんやり)としてまるでその肉体の存在を忘れたかのようである。
顔成子游(ガンセイシユウ)、前に立侍(リツジ)し、曰く、
門人の顔成子游がその前に立ってひかえていたが、口を開いた。
何居(なん)ぞや、形は固(もと)より槁木(コウボク)のごとくならしむべく、
どうなさったのですか。肉体はもちろん枯れ木のようにすることができるし、
心は固より死灰(シカイ)のごとくならしむべきか。
心はもちろん冷(ひ)えた灰のようにすることができる〔というのはこのことな〕のでしょうか。
今の几に隠る者は、昔(さき)の几に隠(よ)る者に非(あら)ざるなり、と。
ただいまの肘掛けに倚(よ)られたご様子は、
これまでの肘掛けに倚られたご様子とは違っています。
偃(エン:顔成子游の名)よ、いかにも立派だよ、お前の問いは。
今の場合は、私は自分の存在を忘れたのだ。お前にはそれが分かるかな。
お前は人の吹く簫(ふえ)は聞いているとしても、
まだ地の簫を聞いたことはなく、
お前は地の簫を聞いたとしても、
まだ天の簫は聞いたことはないであろう。
このあと子游が、教えを乞います。
答は、人の吹く簫(ふえ)も、地の簫も自分で音をだしている。天の簫もそうである。
ということのようです。
『荘子』の齊物論が、「物を齊(ひと)しくする論」ですから、万物皆同じという観点での
答のようです。