3世紀、三国時代末期から西晋初期にかけて、清談をした七人の賢人のことを言います。
「清談」とは、もともとは、人物を評する「清議」から始まったそうです。
七賢の一人で人物評に個性のあった『阮籍』がその代表です。
その後、人物評から政治的言論に発展していきましたが、魏王朝が政治的言論に圧力を加わえたことから、
哲学的言論に変わっていきました。主に無為自然の老荘思想がテーマとなっていたそうです。
二十五史の十二番目『晉書:シンショ』の嵆康(ケイコウ)伝に、竹林の七賢は次の人達ですと云う様な書き方で紹介しているところがあります。
與(とも)に神交する所の者は、
惟(た)だ陳留(チンリュウ)の阮籍(ゲンセキ)、河内(カダイ)の山濤(サントウ)。
其の流れに豫(あづか)る者は
河内(カダイ)の向秀(ショウシュウ)、沛國の劉伶(リュウレイ)、
籍の兄の子阮咸(ゲンカン)、邪琅(ロウヤ)の王戎(オウジュウ)のみ。
遂に竹林の游びを為す。世に所謂(いわゆる)竹林の七賢なり。
七賢を、不確かな人もいますが年齢順に並べてみますと
①山濤(サントウ):205~283。老荘思想を好んだ詩人です。
②阮籍(ゲンセキ):210~263。嫌いな人が来ると白眼で対応し、
気に入りの人物には青眼で対応しました。
気に入らない人を冷遇することを、白眼視(ハクガンシ)というのはここからきています。
③劉伶(リュウレイ):221?~300?。詩人です。お酒が好きで、いつどこで死んでもいいように
従者にはいつも墓掘り用の鍬(くわ)を持たせていたそうです。
④嵆康(ケイコウ):223~262。思想家で詩人。官僚でもありました。中傷により司馬昭に殺されて
しまいました。
⑤向秀(ショウシュウ):227?~272?。読書家で『荘子』の注釈書を完成させ評判になりました。
嵆康が処刑されて後、考えるところあって在野の生活をやめて官僚になりました。
⑥阮咸(ゲンカン):?~? 王戎よりやや年長。阮籍の兄の子。琵琶の演奏にすぐれ、亀玆(クジ)國
から伝わった琵琶を改造した、という説が生まれ、その琵琶は『阮咸』と呼ばれるように
なりました。
⑦王戎(オウジュウ):234~305。文才に秀でた、西晋の政治家として世を全うしました。
1月7日は、『人日(ジンジツ)の節句』と言われていました。古代中国のお話ですが、
正月の1日を鶏の日、2日を狗の日、3日を猪の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日として、
それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていました。
そうして、7日目を人の日として犯罪者に対する刑罰は行わなかったそうです。
またそれとは別に、この日は7種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって『七草粥』となりました。日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着しました。。