『大義親を滅す』と訓読みされまして
人の踏み行うべき道義のためには肉親をも犠牲にする、という意味です。
魯の國の年代記である『春秋』に隠公四年(B.C.719年)の出来事として
九月、衛人、州吁(シュウク)を濮(ボク)に殺す
と、簡単な表記ですませている事件がありました。
これの経緯を詳しく残してくれたのが『春秋左氏伝』です。
時は春秋、周の桓王の元年、魯の隱公の四年のことである。
衛国では、公子州吁が主君桓公を弑して立った。
州吁は桓公を亡き者にすると、諸侯の信任を得ること、とともに自国の人気をかき集めようと
企てた。州吁と共に主君桓公を弑した大夫の石厚(セキコウ)は、父石碏(セキサク)に
相談しました。
「周の王家に朝覲するのがよい」
「どのようにすると、宜しいでしょう」
「陳の桓公が周の王室のお覚えもめでたい。陳国はわが衛とは親しい間柄である。
陳の桓公を通じてお願いすれば、必ず事は叶うであろう」
州吁と息子の石厚が陳に出かけたあと、父親の石碏はひそかに使を陳にやり、
「わが衛国は、国力乏しく、私石碏も老耄して何をなすこともできません。
この二人(州吁と石厚)は、わが桓公を弑した叛逆者です。適切な御処置をお願いしたい」
と告げさせた。
陳国では、二人を捕え、それぞれ立会人の派遣を衛国に求めた。
衛は、右宰・醜を派遣し、州吁を濮で殺させた。
石厚は、父石碏が派遣した、家老に殺された。
以上が『春秋左氏伝』の隱公三・四年の条に出ている物語です。
君臣の大義を全うするためには、父子の心情も犠牲にしなければならない。
後の史家は
石碏は篤実な臣である。州吁を排除するのに息子の石厚を犠牲にした。
【大義親を滅す】とはこのことであろうか、と。石碏を称えています。