【羞(はじ)を包(つつ)み恥(はじ)を忍ぶ】と訓読みされまして、
屈辱を包みこむように受け止め、耐えることことを表わした四字熟語です。
出典は杜牧(トボク:803~852晩唐の詩人)の『烏江亭(ウコウテイ)に題す』という七言絶句です。
勝敗兵家事不期
勝敗は兵家も事(こと)期(き)せず
勝敗は兵法家にも予測はつかない
包羞忍恥是男児
羞を包み恥を忍ぶは 是(こ)れ男児
羞恥を忍ぶ、これぞ男子
江東子弟多才俊
江東(コウトウ)の子弟才俊(サイシュン)多し
江東の若者、俊才多し
卷土重来未可知
卷土重来未だ知るべからず
捲土重来ならば、勝敗いずこ
杜牧が劉邦と項羽の楚漢戦争で、烏江の戦いにおいて項羽が非業の最期を遂げたのを悼んで読んだ詩です。この詩は、【包羞忍恥】と【卷土重来:ケンドチョウライ】の典拠となっています。
どんな名将も勝敗は時の運だから、たとえ負けたとしても恥をしのんで、再起をはかるべきであった。ましてや江東の若者は俊才が多いから、彼らをまとめて再起を果たしたなら、勝敗はどうなっていたか分からない。
赤穂義士祭、吉良祭
1702年(元禄15年)12月14日は赤穂浪士による吉良邸打ち入りの日。
江戸本所松坂町にあった吉良邸の一部は現在松坂公園となり、午前中は義士祭、午後は吉良祭が行われているそうです。
元禄14年(1701年)辛巳
3月14日 勅使饗応役播磨国赤穂藩主浅野長矩、江戸城殿中において髙家吉良義央に刃傷、
長矩は切腹を命じられ除封される。
3月26日 髙家吉良義央を罷免
元禄15年(1702年)壬午
12月14日 浅野長矩の旧臣大石良雄ら赤穂浪士、吉良義央を殺害。
元禄16年(1703年)癸未
2月4日 赤穂浪士46名に切腹を命じる。 『年表 日本歴史』筑摩書房