【老いて当(まさ)に益(ますます)壮(さかん)なるべし】と訓読みされます。
中国『新』末期から『後漢』初期の武将で、光武帝に仕え赫々たる戦功をあげた、馬 援(バエン:B.C.14年~A.D.49年)が老年になってよく人に言っていた言葉です。
「後漢書」馬援伝に記載があります。
馬援は郡の督郵(トクユウ:監察役)となり、囚人の護送業務をしていました。
あるとき囚人を哀れに思って逃がしてやり、自らも北に逃亡してそこで牧畜をはじめました。
馬援の先祖が以前そこで役人をしていたこともあり、馬援はその地の頭となりました。
馬援を慕う人々が次々と集まり、その地の実力者となりました。
常に賓客(ヒンキャク)に謂ひて曰く、
常に人に言ってました、
丈夫の志を為すに、窮して当(まさ)に益(ますます)堅(かた)かるべく、
男子が志を為さんとするならば、窮する程により一層堅固となり、
老いて当に益(ますます)壮(さかん)なるべし、と。
老いる程により一層壮んとならねばならぬ、と。
その後、莫大な財産を得た馬援は言いました、
財産を増やしたならば、人々に分け与えることこそが肝要である。
そうでなければ単なる守銭奴ではないか、と。
得た財産を親族旧知に尽く分け与え、自身は粗末な衣服で満足していたという。
建武24年(A.D.48年)に発生した反乱に出陣を願い出ました。この時、既に62歳。
光武帝は「もう年なのだから」と馬援を止めましたが、
馬援は「私はまだ馬にも良く乗れます」と言って馬に飛び乗り、
光武帝も笑って「矍鑠(カクシャク)たるかな!この翁」と言って出陣を許しました。
しかしこの戦いで亡くなりました。
老いても元気な人を「矍鑠」と褒めるのはこの故事が由来となっています。