【楊 震(ヨウシン)】は人の名前です。後漢前期の政治家です。清廉潔白そのもののような政治家で、そのために「後漢書」楊震伝がたてられたと言ってもいいような政治家でした。
【四知】は、「天知る地知る我知る人知る」の、四つの知をいいます。
「誰も知らないだろうと思っていても、隠し事というものは必ず、ばれてしまう」という意味で用いられます。
ですが【楊震】の真意は、「ばれるからやめろ」というような消極的なことではなく
「人が見ていようが見ていまいが関係なく、常に自分が正しいと思ったことをしなさい」という意味であろうと思われます。
楊震が転勤で任地に赴くことになって昌邑(ショウユウ)という町を通った時の話です。
楊震が以前に荊州の茂才として推薦した王密(オウミツ)が昌邑の県令となっていました。
謁見し、夜に至りて金十斤を懐(いだ)き以て震に遺(おく)る。
(王密は楊震に)謁見し、夜に至って懐から金十斤を取りだして楊震に贈ろうとした。
震曰く、君を知る、君の故人を知らざるは何ぞや、と。
楊震が言いました、私は君を知っている、(それなのに)君が私(という人間)を知らぬのは
何故なのか。
密曰く、暮夜なり、知る者無し、と。
王密が言いました、夜も更けております、誰も知る者はおりません、と。
震曰く、天知る、地知る、我知る、子知る。何ぞ知る無しと謂はんや、と。
楊秦が言いました、天が知り、地が知り、私が知り、君も知る。
どうして誰も知る者無しと言えようか、と。
密、愧じて出づ。
王密は(自分の行為を)愧じて退いた。
その後、楊震は更に出世し三公(大尉・司徒・司空)となりました。
その時は宦官や皇帝の乳母が権力を持ち、楊震に彼らの一族を用いるように頼みこむのですが、
楊震は承知しません。
逆に彼らを退けるよう皇帝に進言しました。
そのため楊震は彼らに妬まれ、讒言され、これを信用した皇帝により官職を免じられてしまい、
失意のうちに、自殺してしまいました。