根本の一つのことがわかれば、その他のいろんなことが理解できるということです。
王陽明の弟子達が師の書簡や言行を三巻にまとめた『伝習録』にでている四字熟語です。
『伝習録』の「伝習」は、論語学而篇にある「習わざるを伝うるか」によるものです。
『伝習録』は「陽明学」の真髄ともいわれています。
【一了百當】が『伝習録』のなかで記載されているのは、
お弟子さんが王陽明に「思邪無し」の言葉について尋ねたところに出ています。
論語に「詩三百、一言以て之を蔽う。曰わく、思邪無し」とありますが、「思邪無し」の一言で、
どうして三百篇全体を蓋い尽くすことが出来るのでしょうか。
王陽明が答ました。
「思邪無し」というのは、天理(天が人々に与えた本性)に基づく純一な良知(心のはたらき)で
得られた結論で、詩経に限らず、六経(リクケイ)やその他の全てに、これ(思邪無し)以外に
いうべきことが無いのである。
此是一了百當的功夫
此(これ)は是(こ)れ一了百當の功夫(クフウ)なり、と。
これこそ一を明らかにすれば百が分かる貴重な修行である。
朱子學、陽明学 どちらも儒学をベースとして「修己(己を修む)」、「治人(人を治む)」の思想であり、
朱子学は理論一辺倒なのに対して、陽明学は、理論を実践に生かす、ことを目指している、とも言われています。