【先見之明】は、将来に何が起こるかを前もって、見通すことが出来る能力をいいます。
【先見】は、先を見通すことです。
『後漢書』楊彪(ヨウヒョウ)伝に【先見之明】がでています。
建安四年(199年)、復た太常を拝す、十年に免ぜらる。
建安四年、楊彪は再び太常に任命され、建安十年に免ぜられた。
建安十一年(206年)、諸の恩沢を以て侯と為る者皆な封を奪はる。
建安十一年、朝廷の恩沢を受けて諸侯となっていた者達はその領地を奪われた。
彪、漢祚の将に終らんとするを見、遂に脚攣(キャクレン)すと称して復た行かず、
十年を積む。
漢の命運もこれまでと思い、楊彪は足が悪いといって朝廷に参内しなくなり、
そのまま十年が過ぎた。
後に子の脩、曹操が為に殺さる、操、彪に見えて問ふて曰く、
その後、息子の楊脩(ヨウシュウ)が曹操に殺された。曹操は楊彪に云った。
公、何ぞ痩せるの甚だしきか、と。
あなたはどうしてそれ程までに痩せてしまったのか。
対へて曰く、
楊彪は応えて云った。
愧ずるは金日磾(キンジッテイ)の【先見之明】無く、猶ほ【老牛の舐犢(シトク)の愛】を
懐(なつ)くるを、と。
金日磾のような先見の明も無く、老牛が舐犢の愛を懐かしく思うような自分を
愧じてのことです、と。
操、之が為に容を改む。
曹操はこれを聞いていずまいを正したという。
『金日磾のような先見の明』とは
金日磾の二人の子が、武帝の寵童となった。その後、二人はイイ気になって、謹みを忘れ、
宮人たちと戯れました。金日磾はこれを見て驚き懼れ、ゆくゆくこの二人の子は武帝のために
ならないと思い、遂に二人を殺してしまった、という故事によるものです。
この楊彪伝にはもう一つ、親が子を溺愛するという意味の四字熟語【舐犢之愛:シトクのアイ】が
掲載されています。おそらく初出と思われます、。