ひどくやつれて元気が無い人のことを言います。
喪中の家では、悲しみにくれて、とても狗のことなど構っていられない状態になります。
餌を貰えない狗は、痩せ衰えてしまいます。
そんな状況を【喪家之狗】といいます。
魯の定公の十四年(B.C.496)、孔子は魯の国にあって政治を取り仕切っていましたが、王族の三桓氏と相容れず、ついに魯を追われてしまいます。
以降、孔子は十数年の間、衛・曹・宋・鄭・陳・蔡など広く諸国を遍歴せざるを得なくなりました。
鄭の国での出来事として『史記』孔子世家に【喪家の狗】が出てきます。
孔子鄭(テイ)に適(ゆ)き、弟子と相(あひ)失(うしな)ふ。
孔子が鄭の国へ行った時のこと、弟子たちとはぐれてしまいました。
孔子獨(ひと)り郭(カク)の東門に立つ。
孔子は、ひとり城郭の東門に佇んで(弟子たちが探しにくるのを)待っていました。
鄭人(テイひと)の或(あ)るもの子貢(シコウ)に謂(い)ひて曰く、
(その姿を見かけた)鄭人が子貢に言いました、
東門に人有り、其の額は堯に似、其の項(うなじ)は皋陶(コウヨウ)に類し、
東門の傍らにいる人は、その額は堯に似ているし、そのうなじは皋陶のようだし、
其の肩は子産に類す。然(しか)れども要より以下、禹に及ばざること三寸。
その肩は子産によく似ていてます。しかし腰から下は禹に及ばないこと三寸、
累累(ルイルイ)として、喪家の狗(いぬ)の如し。
その疲れた様子は、宿なしの迷い犬みたいでしたよ。
子貢、實を以て孔子に告ぐ。
子貢がありのままを孔子に告げると
孔子欣然(キンゼン)として笑ひて曰く、
孔子は欣然と笑って言いました、
形状は末(いま)だし。而(しか)も喪家の狗に似るとは,
容姿についてはどうかと思うが、【喪家之狗】とは言ったもんだな。
然(しか)らんかな、然(しか)らんかな。
そのとおり。そのとおり。
【喪家の狗】の初出であります。
孔子は、諸国を説いてまわりますが、戦乱のさなかの『徳治主義』はどこからも受け入れられません。
まさに【喪家の狗】のごとく心身これ疲れはてて魯に戻って行くのでした。