【一を聞いて十を知る】で知られています。
一つのことを聞いただけで十のことを知る、わずかなことを聞いて物事の全体を理解することを
表した言葉です。
きわめて理解が早く、洞察力が鋭いことの喩えです。
『論語』公冶長にでてくる言葉です。
子謂子貢曰、
子、子貢(シコウ)に謂(イ)ひて日(いは)く、
孔子が子貢に問いました、
女與回也孰愈。
女(なんじ)と回と孰(いづ)れか愈(まさ)れると。
お前と顔回とどちらが優(まさ)ると思うか
對曰、
対(こた)へて日く、
答えて言うには、
賜也何敢望回。
賜(シ)や何ぞ敢て回を望まん。
どうして私など顔回と比較になりましょうや、とても及びもつきません。
回也聞一以知十。
回や一を聞きて以て十を知る。
顔回は一を聞いて十を悟りますが、
賜也聞一以知二。
賜や一を聞きて以て二を知ると。
私は一を聞いて二を知る程度に過ぎません
子曰、弗如也。
子日く、如かざるなり。
孔子は言いました、まことにその通り(お前は顔回に及ばない)
吾與女弗如也。
吾と女と如かざるなりと。
(だが及ばないのはお前だけではない)
かくいう私も顔回には及ばんのだよ。
一を聞いても二しか知ることのできない子貢ですが、どうしてどうして、『史記』仲尼(チュウジ)弟子列伝では、子貢が一たび使いするや、諸国の形勢を打破し、十年の内に五国(魯・齊・呉・晉・越)はそれぞれ変貌を遂げた、と。大変な活躍ぶりでした。更に商才もあったそうです。
そうなると、十も知る必要はなさそうです。安心しました。