ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(1848年6月7日~1903年5月8日)は二月革命の年にパリに生まれました。
ゴーギャンが生まれてまもなく、一家は南米ペルーのリマに亡命しました。しかし父はゴーギャンが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、ゴーギャンが7歳の時フランスに帰国しました。
17歳の時には航海士となり、
20歳~23歳までは海軍に在籍し、普仏(フフツ)戦争にも参加しました。
その後ゴーギャンは証券会社の社員となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、五人の子供に恵まれ、趣味で絵を描いていました。この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎませんでした。
35歳になって証券会社を辞め画業に専念します。
40歳の時、南仏アルルでゴッホと共同生活をしますが、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は2カ月で破綻します。
43歳の4月タヒチに渡ります。途中3年ほどパリにもどることもありましたが、ゴーギャンのタヒチを題材にした傑作の数々は、二度目のタヒチ移住で描かれたものがほとんどです。現在では傑作と呼ばれている絵画が描かれた時期の生活は、病気になっても病院にいけないほどでした。
40代で家庭は破綻していました
49歳の時、大作を仕上げます。この大作は絵の左上の三角形の空間に「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」と遺書めいた言葉が書き記されています。
1903年54歳で貧困と絶望のうちに、この世を去りました。
イギリスの作家サマセット・モームの代表作「月と六ペンス」(初刊は1919年出版)の主人公の画家のモデルでもありました。