鶏の中に鶴が一羽まじっている、ということを表した言葉ですが、言わんとしているのは、
多くの平凡な人の中に際立って優れた人がいる、ということです。
『世説新語』容止にでているエピソードとしまして
有人語王戎曰、
人有り、王戎(オウジュウ)に語りて曰く、
或る人が王戎に語りました、
嵇延祖卓卓如野鶴之在雞羣。
嵇紹(ケイショウ)は、卓卓(タクタク)として野鶴(ヤカク)の雞羣(ケイグン)に在るが如し。
嵇紹は高く抜きんでて、野鶴が雞の群れの中にいるようだ。
答曰、君未見其父(嵇康)耳。
答へて曰く、君は未(いま)だ其の父(嵇康:ケイコウ)を見ざるのみ、と。
答えて言いました、あなたはまだ彼の父親を見たことが無いからな。
同じ様な内容で「晉書」の「嵇紹伝」から引いた言葉としまして
昨於稠人中始見嵇紹、
昨(きのう)、稠人(チュウジン)の中に於て始めて嵇紹(ケイショウ)を見しに、
昨日、人ごみの中ではじめて嵇紹を見たんですが、
昂昂然如野鶴之在雞群。
昂昂然(コウコウゼン)として野鶴の鶏群に在るが如し。
意気高らかにさっそうとしていて、野の鶴が鶏の群におり立ったみたいですね。
嵇紹の父:嵇康は、竹林の七賢です。