「学問や道徳の修得に、自ら励むこと」が元の意味です。今は「友人同士が互いに競い合う」という意味に使われることが多いようです。
衛の武公(B.C.812~B.C.758)が90歳を過ぎても尚、徳を修めようと自己練磨する姿を讃えて「切(せっ)するが如(ごと)く、磋(さ)するが如(ごと)く、琢(たく)するが如(ごと)く、磨(ま)するが如(ごと)し」と詩経・衛風に謳われたのが最初です。
論語學而(がくじ)では孔子と弟子の子貢(しこう)が「人としての有るべき姿」の話をしていた時に「切磋琢磨」が引用されました。また大学(論語、孟子、中庸と共に儒学の経典(けいてん)で四書と云われています)にも「切するが如く、磋するが如し、とは学ぶを道(い)うなり。琢するが如く、磨するが如し、とは自ら脩(おさ)むるなり」と引用されています。
切磋琢磨を刀、鑢(やすり)、鑿(のみ)、砥石で荒削りから仕上げへと進む一連の工程に譬(たと)える説と、切磋と琢磨に分けて考える説とがあります。何れにしましても古来、学問や道徳の修得には、これでいいという限界がないことを説明する時にこの詩句が引用されたようです。
切磋琢磨はこまかいことを言いますと四字熟語というよりは、一字一字が独立した意味を持っていて、それらが連結されて出来あがった言葉です。でも四字熟語辞典などには、もれなく載っていますのでれっきとした四字熟語です。