HOME >
復興への思い > 「日本は議論を歓迎する社会づくりを」 外国語スクール園長 ジーナ・カレン・シーファー
復興への思い
「日本は議論を歓迎する社会づくりを」 外国語スクール園長 ジーナ・カレン・シーファー
外国語スクール園長 ジーナ・カレン・シーファー
【略歴】米ウィスコンシン州ライスレイク市出身。1958年生まれ。オークレア大学、ジョージワシントン大学卒、同大学院修了。国際交流の橋渡しや同時通訳者として活躍し、ライスレイク市と三春町、チェコ・ジャンベルク市の姉妹都市関係樹立に尽力。これまで5度の国際賞を受賞。現在、アゴラ郡山校園長
■外国語スクール園長 ジーナ・カレン・シーファー あの「3・11」からこの一年は、もう悪夢としか言いようのない連続でした。朝、目が覚めると、「あれは夢だった?」とわずかな期待を持つが、「夢じゃなかった」と思うたびに絶望感に襲われます。
私は26歳の時、田村郡三春町に招かれて来日、英語の学習指導にあたってきました。生まれ故郷はアメリカのライスレイク市にあります。市の中心部から離れた農村部に私の家はありました。ドイツ語やフランス語、スペイン語などを学びましたが、全く違う言語である日本語に興味を持ち、大学生の時に半年間、関西の大学に留学した経験があります。そのこともあって、三春町に派遣される先生として選ばれました。
こうしたことがご縁となり、三春町はライスレイク市と姉妹都市になりました。この話はもともと母が切り出したことがきっかけで、実現しました。故郷を離れる際、母から「良い町だったら姉妹都市として友好を結ぶのはどう?」とアイデアを持ちかけられていたのです。三春町でも提携に向けて話が進みましたが、ライスレイク市の決定の速さに比べたら遅いものでした。ライスレイク市では母が、直接議会に話を持っていき可決された、という実にシンプルなものでした。一ヵ月もかからなかったのを覚えています。このことを友人に話すと、「お母さんの職業は?」と聞かれたりしますが、ごく普通の農家の女性です。「自分の考えに信念を持ち、理解を得るために行動する」という私たちにとっては当たり前のことを、母もしていたに過ぎません。
日本に初めて来てから30年ほどたち、日本の慣習といったものを少し理解はできるようになりました。しかし、正直言って、縦割りでありすぎる日本人のものごとの進め方や対応の仕方には、賛成できません。子育ても日本で経験して、日本の学校に子どもを通わせました。その間に学校や先生の対応、子ども同士の付き合いなどをよく見てきたつもりですが、驚くことがたくさんあり、そのたびに友人に相談したり、助けを求めたりもしました。でも、決まって「そんなもんだよ」とか、「どうせ変わんないから」とかの返事しかもらえませんでした。そんな日本人の態度に戸惑いながらも、主張することをどうしてしないのか不思議でたまりませんでした。歴史や文化の違いによるものだということもわかってはいましたが、自分のことはまず、自分で発言していかなければ守れないのです。
悲しいきっかけではありますが、東日本大震災、原発事故による放射能被害などによって日本人も変わっていっていることに気づきます。大変なことになっているのに、信じられないくらいみんな笑顔で頑張っていると思います。すごいな、偉いなと思いますが、時々「もう少し叫べば」「もっと文句をいえばいいのに」と思う時もありました。それでも、多くの人たちが発言し、議論をし始めたと思います。行政に頼らず、自分たちでやり始めたことは社会に良い影響をもたらすと思います。もう一つ、広域のボランティアをするようになったことです。これも、歓迎すべきことだと思っています。この兆しをしっかりとらえて、議論することを歓迎する社会をつくっていってほしいと思います。
私は、福島県が大好きです。海も山も近くにあり素晴らしい景色で、空港からもちょうど良いくらいの距離にあります。果物も野菜も海の幸も豊かです。何を食べてもおいしいものばかりです。そして、みんな親切にしてくれます。この大好きな福島のためにできることは、やっぱり英語教育です。英語を教えることにより、将来世界のみんなに福島がどんなにすばらしいところか福島でどんなことがあったのかを表現できる子どもを、育てあげたいとも思っています。外人の先生が少なくなってネイティブな英語で接する人材が不足していますが、福島県から直接、世界に発信できるお手伝いをしたいと思っています。
今は子どもたちの笑顔に囲まれ、ほかの外国人がどうであっても、この子たちや大切な友人のためにこれからもここに住み続けようと決めています。