復興への思い
「わからないこと」と向き合う 芥川賞作家・玄侑宗久
芥川賞作家・玄侑宗久
・玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)
■芥川賞作家・玄侑宗久 放射能については、これまで本当に何もわかっていなかったのだということが、次第にわかってきた。
核物理学を学んでも、実際に放射性セシウムがアスファルトには固着せず、しかしコンクリートやゴム、プラスティックには固着することなども、今回の事故以前には知られていなかった。具体的な測量や除染という行為をしてみて初めてわかってきたことである。
また日本のような粘土質の多い土壌では、放射性セシウムが粘土粒子と合体し、そう簡単には植物に吸い上げられないこともわかってきた。これは東北大学の石井慶造先生が9月6日の原子力委員会で発表したもので、そのため米や野菜にどうして放射性セシウムが吸い上げられないのか、そのメカニズムが解明されたのである。
ところがこのニュース、あまり大きく報道されない。それゆえ県内の人々でさえ、発表される「ND」を信用しないような事態が起こっている。これは明らかに不幸なことだ。同じ地域のなかで、農業者と子供の親たちが敵対しているようなものだ。
私はあちこちでこの「石井論文」の話をするのだが、もっと大々的に、しかも速やかにこれが伝わってほしいと思う。
しかしそれでも、年間20mSv~100mSvの低線量被曝の影響については、データがないためわかっていない。そして人は、この「わからないこと」に向き合うのが相当苦手であるらしい。
わからない相手は、どうもすぐに敵か味方かに分類してしまう。この場合で言えば、超楽観的に問題なしと、根拠もなく思ってしまう人々と、超悲観的にゼロがベストだと思い込み、発がん率もゼロから比例的に増加すると、これまた根拠なしに思い込む人々と、である。
じつは最近開かれた核物理学会でもその両極化が見られるというのだから、素人はなおさらだろうと思う。
超悲観派は予防医学的でもあるので、万が一のことを考え、子供を遠くに避難させるなど、「後悔しないため」万全の策を打つ。
しかしこうした態度をたとえば他県の人々にとられると、それはあっさり「差別」になってしまうことには、案外気づいていない。
万が一のことを考え、自分の子供を避難させることと、万が一のことを考え、自分の子供と福島県人とは結婚させず、また福島県の野菜も食べない、ということに、いったいどれほど差があるだろう。
じつは超悲観派の予防医学的態度が、そのまま差別を生みだす土壌なのである。
しかし人は、わからない低線量の放射線に、我が子を晒すような実験的なことも無論したくはない。
経済や周囲の事情が許さず、やむをえず残っている人々も含め、そこに居ることが正しい選択とは勿論言い切れないのである。
ならばどうすればいいのか?
一般論としては、わからない、としか言いようがない。
しかしそれぞれの事情のなかで、それぞれが諦めずに努力していくしかないだろうと思う。
大切なのは、子供にとってのストレスを、放射能に限らずトータルに勘案することだろう。
先日、ふくしま会議にチェルノブイリから来てくれた産婦人科の医師、ジミナ・ナジェージダさんも仰っている。
「ストレスを抱え込むことは、ときに放射能よりも恐ろしい。どうかパニックにならないでください」
空間線量や累積の線量などから子供の眠る部屋の線量を調べ、まずは子供を家中で最も線量の低い部屋で眠らせるようにしたい。
子供はよく眠る。一日のほぼ三分の一はその部屋に居るといってもいいだろう。だから線量の低い部屋に移し、それからじっくり家の線量を下げる方策を練るのである。
時間がないわけではない。そう考えたほうがストレスも減る。慌てず、しかし速やかに、家族で智恵を絞り合うのである。
わからないことに向き合って智恵を絞るために、まず必要なのは、わかっていることを悉く学ぶことである。
先の石井論文もそうだし、放射線そのものの種類や性質についても知らなくてはならない。近くに山があるなら、その除染については行政に相談すべきだろう。行政が明確な手を打てるとは限らないが、とにかく声は上げなくてはならない。
いろいろ学ぶうちには、きっと3・11以前から口にしていたものに、ずいぶん放射性物質が含まれていたことも知るだろう。
我々のからだにとって、カリウムは必須な成分だが、天然のカリウムにはどうしても0・017%の放射性カリウム40が含まれている。たとえばバナナ一本で40ベクレル、乾燥昆布などは2000ベクレル/kgも含まれているのだ。何より重要なのは、我々のからだからも、体重60kgの人でほぼ4000Bqもの放射線が放出されていることだ。これもカリウム40の仕業なのである。
核種ごとの線量が計れるような厳密な器械は、むろん市販されているようなレベルではない。市販品のレベルでは、どうしてもこのカリウム40も含めて計ってしまっていることを、忘れてはいけない。
知れば知るほど、わからなくなってくるだろうか?
そうかもしれない。 しかし、わからないことを決めつけてしまうのは、楽観にしても悲観にしても、まだまだ早すぎることだけは確かだ。
人生においても先のことは、もともとわからないものなのだし……。
(2011,11/16)