復興への思い
「自分にとっての脱原発」 ハイロアクション 武藤類子
ハイロアクション・武藤類子
1953年生まれ。養護学校教員を務めながら86年ごろから脱原発運動に携わる。2003年、喫茶店「燦(きらら)」開店、環境にやさしい暮らしを提唱。11年9月19日、6万人が集まった「さようなら原発集会」でのスピーチで多くの人たちに感銘を与える。ハイロアクション福島四十年実行委員会
■ハイロアクション・武藤類子 25年前にチェルノブイリ原子力発電所の事故がありました。その年に、姉が白血病を発病したのがきっかけで、原子力発電に関心を持ちました。調べるごとに、原子力発電に関わる差別や犠牲の構造を知り、原子力発電は止めなければならないと思うようになりました。ウランの採掘での被ばく、発電所の定期点検での被ばく。事故が起きなくても危険にさらされ続けている人たちがいます。それに、劣化ウランは、兵器ともなりうるのです。
それで、「脱原発福島ネットワーク」や「原発を止めたい女たち」といった市民団体で原発をなくすための活動を続けるようになりました。
昨年は、3月26日に東京電力の第一原発1号機が稼働してから40年を迎えることで、今一度原発への認識を新たにし廃炉への運動を活発にしようと、「ハイロアクション」の活動を始めました。その矢先の震災でした。これからは、福島の「被曝者援護法」の制定を目指し活動を続けていきます。また、東電に対しては、刑事告訴を考えています。
3月11日に懸念していた通りの原発事故となり、間に合わなかった無念さと空虚感でいっぱいでした。10カ月が過ぎ、現在は放射能値や損害賠償の保障範囲などをめぐり福島県民は分断させられてしまっています。自ら分かれたのではなく、政府や県の政策によってそうなってしまったのです。傷ついた心をお互いにまた傷つけ合うのを止め、どんな選択をも尊重して精いっぱい生きるのが与えられた使命ではないでしょうか。
震災や原発事故によって取り返しようのない社会となってしまいました。もとにもどしたいという気持ちはやまやまですが、よく考えますとそれだけではいけないのです。もとにはもう戻せないですし、もう世界は変わってしまったのです。既存の考え方を捨て、新たな考え方が必要な時になりました。こうなってしまったのですから、新しい世界を築くという考えのもとにひとり一人が行動しなければなりません。
まず、目先ばかりにとらわれないで復興に取り組む必要があると思います。私は、復興の鍵は子どもや若者が元気に過ごせることだと思います。うわすべりな復興策は、健康被害を拡大し何より大切な宝をなくすことになりかねません。
子どもたちが放射能の影響を受けないように、集団などで疎開するのが体のためには良い方法だと思いますが、それぞれの家庭の都合があり現実化することは、難しいかもしれません。ならば、定期的に放射能値の低い地域で過ごす期間を設けて体の回復を積極的に促す、ということを強く行政に求めたいと思います。また、汚染されたものは、子どもたちに摂取させたくはありません。どんなに低い値でも食べさせたくはありません。その代り、第一次産業従事者に、しっかりとした賠償をしてほしいと思います。
そして、私たちの生き方も変わらなければなりません。私たちはたくさんの恵みの中で暮らしてきました。今こそ、環境に負荷をかけない暮らしを日本人みんなで考え、自分の生活の言わばリーダーシップはしっかりと自分で取ることが、本当の意味での復興だと思います。
自分の家の電力消費量を知り、何に電気が多く使われているかを考えることからはじめ、それが本当に必要なものかを自分自身に問いかけてみます。自分の存在が自然の中の一部であることを自覚し、エネルギーを大切に使う工夫をしているうちに、工夫する生活が喜びとなってくるはずです。
自然エネルギーの開発も原発に依存しない社会を目指す鍵でしょうが、それだけで今の消費量を賄えるエネルギーを得るのは無理ではないでしょうか。今日までのようなエネルギーに対する考え方を改め、今までの生活を変えることが極めて重要だと考えます。
福島県は「脱原発宣言」をしました。私にとっての脱原発は、暮らしを見直すということにほかなりません。原発を許す社会を形成した世代としての重い責任を担いながらも、新しい生活を構築し直さなければならないと思っています。
(2012・1・29)